タウンマネジメントの早期導入が、付加価値の高い再開発事業を実現させる
石川島播磨重工業株式会社
再開発プロジェクト室 室長 吉田 豊 氏
「豊洲地区」約60ha自社開発という決断
当社では現在、全社的な規模で工場を含めた事業所の再編を進めております。その中でも目玉といえるのが、東京・豊洲における未来都市を目指した再開発事業「TOYOSU Project」です。同地は、大正時代後期から昭和12年にかけて埋め立てが行われ、同14年から当社が造船所建設を開始。以来、約40haにおよぶ広大な土地を所有し、工場およびテクニカルセンターなどの製造、研究開発、設計の中核施設として利用してきたところです。
これら施設の立ち退き計画が出たのは昭和63年頃のこと。都心と臨海地区を結ぶ都内主要道「晴海通り」が晴海運河を横断する形で延伸されることになり、建造した船舶の出入りに支障をきたすことが直接の原因となりました。
当社では以前、会社発祥の地である石川島(現佃島)の約17haを、同じような状況から一括売却した経緯があります。ここは、現在「大川端リバーシティ21」として再開発され、大成功を収めています。今回も当然、売却という選択肢が検討されましたが、東京駅から3.5kmという非常に利便性の高いエリアに、約40haという広大な敷地を有していること、さらに、東京都が臨海副都心構想を計画している最中だったことなどを考え合わせ、売却ではなく、より付加価値の高い街づくりを目指そうという結論に達し、開発計画の立案に着手したのです。
十数年の歳月をかけ検討を重ねた「東京湾奥委員会」
自社開発を決定した後、最初に実施したのが、私的な諮問機関である「東京湾奥委員会」の設立でした。著名な方々に委員をお願いし、まずこの地に、どういう街づくりを行うべきかの検討を始めたのです。東京において、これだけ恵まれた敷地がある以上、月並みではなく、東京の再開発の目玉として、長く成功を収めるプロジェクトにしたい。そんな並々ならぬ決意が、経営陣の中にあったと言えます。
この東京湾奥委員会を中心に、十数年にわたって検討を重ねてきたわけですが、その間には、臨海副都心計画の中止や、事業所移転に伴う補償問題など、いくつかの懸案事項がありました。また、社内に大規模な不動産を扱えるビジネスの専門家がいなかったことから、東京湾奥委員会とは別に、時には総務部内の一部署として、また時には不動産開発事業の一部門とかたちを変えながら、情報収集を含めたプロジェクトチームを結成。委員会と協力しつつ検討を進めていきました。
こうした成果を踏まえ、平成13年に全社横断的に17名のメンバーによる再開発プロジェクト室を正式に立ち上げるとともに、土地開発事業のプロフェッショナルである三井不動産にコンサルティングをお願いし、計画を煮詰めていきました。そして同年10月、東京都による「豊洲1~3丁目地区まちづくり方針」の発表を受け、当社としての再開発方針を策定しました。東京湾奥委員会で創り上げてきたコンセプトに従い、同地域の地権者である東京都や江東区、巴コーポレーションらと意見の交換や折衝を重ねながら、約60haの規模を持つ大規模再開発計画の概要をまとめたのです。
簡単にご説明すると、開発フレームとして、開発終了時点での就業人口は約3万3000人、居住人口約2万2000人を想定しています。
また、開発コンセプトとしては、
- 次世代型産業・業務の拠点づくり。
- 水辺に開かれた賑わいのある街づくり。
- 新しいライフスタイルに対応した都心住居の実現。
- タウンマネジメントによる優れた都市環境の維持・向上と多地区開発プロジェクトとの差別化。
の4点を挙げています。これらが最終的に採択される過程で、当社がイニシアチブを取れたのは、もちろん約40haの敷地を保有していたということもありますが、東京湾奥委員会による長年の努力が実を結んだということでもあるのでしょう。
日本初の試みであるタウンマネジメントの初期導入
こうして、再開発事業が始まったわけですが、まず驚いたのが、近隣の方々が非常に好意的だったことです。事務的に行われがちな住民の皆さまへの工事説明会などでも、自然に拍手が起き「ぜひ、いい開発をお願いします」と、ご声援をいただいたほどです。これは、昭和14年の工場創業以来、約60年間にわたって地域との密接なつながりを保ってきた、その安心感があってのことだと思います。仮に同様の開発計画であっても、まったくの第三者では、こうはいかなかったのではないでしょうか。
よりよい街づくりを実現する上で、こうした住民の方々との協調関係を維持することはとても重要であり、そのため今回の開発では、開始当初から「タウンマネジメント」を導入するという試みを実施しました。スタート時は、当社と都市再生機構、芝浦工業大学の3者によるものでしたが、その後、次々と企業に参画いただき、どういう街づくりをするか、概論形成やルールづくりからサイン計画、ランドスケープ、果ては舗道に利用する舗装材の材質まで、みんなで話し合いながら進めていきました。
同時に、開発案を住民の方々に包み隠さず説明して理解を得るとともに、工事の進捗の中で起こる不安や不満をストレートに話してもらえるよう、「街づくり協議会」の中に「地域交流部会」という部会を設けました。窓口を一元化することで、住民サイドのご意見が出やすくなるとともに、私どもとしても情報を共有化できる便利なシステムであり、こうした誠意ある対応をすることで、良好な関係を維持していきたいと思っているのです。
一般論としては、街づくりがスタートしてから地権者が集まりタウンマネジメントをはじめ、結局、まとまらないといったケースが多々見受けられます。しかし、幸いにも豊洲は地権者が少なく、また皆さんがタウンマネジメントに積極的だったことから、開発当初から導入できた日本で初めての例となりました。
あえて手のかかる手法を取り入れたようにも見えますが、その分、整合性の取れた付加価値の高い街づくりが実現できると自負しております。実際、豊洲エリアの市場での評価が急速に高まってきているのが、その確かな証拠なのではないでしょうか。また、最初に苦労してコンセプトを明確化したことで、その後の意思決定のスピードが速いこともメリットでした。この3月には街開きを予定していますが、これだけの規模の開発にもかかわらず、開始からわずか4年あまりで、全体の3分の2の計画が確定しているというのも、あまり例がないことだと思います。
過去の歴史を踏まえた未来都市"豊洲"を目指して
当社では今回の計画に伴い、本社ビルを建設し、全社を挙げて豊洲開発に取り組んでいます。また、埋め立て以来の造船事業の足跡を感じさせるドックやクレーンなどを「産業遺構」の名の元に残すことで、歴史ある街としての特性を明確にしています。
さらに、コンセプトにあるとおり、すでに豊洲に進出しているNTTデータや日本ユニシス、さらに移転が決定している芝浦工業大学を含めた次世代産業拠点を形成していきたいと考えており、当社をあわせたテクノロジーの香りのする街になると予想しています。
また、海を意識した開発として、どのビルからも海が見えるという、今までの日本にはないスタイルのビジネス街を目指しています。加えて、この"海"へのアプローチといった意味で、隣接する晴海、豊洲埠頭の地権者と共に「東京インナーハーバー連絡会議」をタウンマネジメントの一環として立ち上げ、海と街とがマッチした付加価値の高い景観づくりに務めています。
街のイメージを一言で言えば「湾岸の吉祥寺」。充実した商業施設や大学があり、外から来る人はもちろん、そこに住む人たちにとっても住んで楽しい、歩いて楽しい街が目標です。そのためにヒューマンスケールの開発を心がけていますし、こうした方向性を明確にしていることで、新規参入する企業の方々にも安心して進出していただき、積極的に街づくりに参加してもらっています。
今回の経験を通じて感じたのは、私どものようなメーカーと不動産の本職であるデベロッパーとでは、目指す開発に対する視点が微妙に違うということです。地域への付加価値に対しても、取り組み方が大きく違っている。これは、実際に経験しなければ分からないことだと思います。こうした経験を、今後の当社の開発に活かすと共に、このノウハウを広く一般にも活用していただけたらと考えています。