シービーアールイー アセット営業本部
丁田 剛
まずは国内の物流センターがどのように変化してきたかを、商品の流れと共に時系列で見てみましょう。年表にもあるとおり、1970年代には東京流通センターによる大田区平和島、寶組による品川区勝島の、大型物流施設の開発が話題となりました。ですが、これは当時の一般的な物流施設像からみると、かなり特別な存在といえるでしょう。
70年代の物流のスタイルというと、メーカーであれ、卸業であれ、自社の営業所の中に商品を置き在庫を抱え、社員が同時に配送も行っていた時代でした。つまり、営業拠点兼物流拠点。個人商店が多く大型店舗のない時代ですから、1ヵ所に大量の在庫を抱えるよりも分散して保管していた方が機能的だったわけです。
80年代に入り、「商物分離」という考え方が広まるとともに、物流は大きな転機を迎えることとなります。その要因として、スーパーマーケットなどの台頭により小売が強くなってきたこと、その小売のための商品構成が必要になってきたことが挙げられます。アイテム数も量も増加し、POSシステム等による在庫管理も大きく進展。そのため営業拠点に在庫を抱えるよりも、営業と物流の拠点を分離した方がより効率的となっていきました。ここで初めて、配送センターの必要性が出てきたといえるでしょう。
<さらにその後、大手スーパーや多くの路面店を展開するドラッグストアなど、小売の力がさらに強まると、それに対応するため物流施設の形態も変化を遂げます。要望は多種多様になり、取引先も増加の一途。それに合わせて、いったいいくつ配送センターを作ればいいのかという危惧がでてきました。また、いかに効率化を推し進めるかという課題解決に対して不可欠となってきたのが、物流全体を総括する広域流通センターです。
例えば首都圏では、これまで城南・城東・城北・城西の配送センターで個別に対応してきた物流機能を統合・再編し、首都圏全体をカバーする湾岸部の大型物流センターと内陸部の小規模配送センターで物流を構築しようという発想になりました。また、小売サイドも、大手スーパーなどでは自前で物流施設を開発し、そこに卸業者を入居させるといったケースが出てきました。これも同様に、物流施設の大型化に拍車をかけることになったといえます。
このような物流施設の大型化の流れとは一線を画して、それでも90年代初頭までは、より顧客に近いところで物流を展開しようとする動きも存在していました。バブル景気の絶頂期までは企業に資金の余力があり、そのため、都心部の物流センター構築に投資を行うことが可能だったのです。例えば、新宿に顧客が多い飲料メーカーなら、家賃が高くても新宿周辺に50~100坪の小さな倉庫を構える。その方が合理的だと判断していたわけです。
ただ、このような傾向は、バブル崩壊以降、企業のコスト削減意識の高まりとともに急速に衰退していきました。また、さらに景気の後退が鮮明になってくると、それまで自前で専用センターを設けていた小売業なども本業回帰を図り、徐々に物流機能をメーカーや卸業者、物流業者に委託するようになってきました。スーパーにおける商品の流通に例えると、鮮魚コーナーならば、最初は店舗内で魚を卸していたために、店内のバックヤードに大きなスペースを設け、そこで魚をさばいてパック詰めする必要がありました。
しかしそれが、メーカーや卸業者がカットして、さらにラッピングまでして運んでくるという流れになってきたわけです。そうすれば、店舗自体も小売に特化した展開が可能となります。同様に物流施設も、「本業に専念するため、物流センターは卸業者が物流会社と共同で作ってください」と要求するようになり、今、安定的に荷主を確保したい物流会社と、物流施設を持ちたくない小売業との意向が合致して、物流会社がどんどん施設を持つようになっていったのです。このようなニーズが、以降3PL(サードパーティー・ロジスティクス)が台頭してきた一因ともいえるでしょう。
物流マーケットと物流施設の変遷 | |
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1970年代 |
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1980年代 |
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1990年代 |
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1999年 |
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2000年 |
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2001年 |
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2002年 |
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2003年 |
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2004年 |
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2005年 |
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2007年 |
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資金調達力に起因する施設提供者の変遷
さて、今度は大型物流施設の供給者側にスポットを当てて見てみることにします。大型施設が登場した当初、その担い手は物流業者の集合体である共同組合でした。次に自治体あるいは国が主体となって土地を整備し企業を誘致するようになり、バブル期は一般の企業が自社保有の倉庫を建設。バブル崩壊後は、半官半民の第3セクターが物流施設を提供し、その後、大規模化に伴いその役目はリース会社に移り、現在では不動産ファンドがメインの提供者になっています。
このなかで注目されるのがバブル期以降の動向でしょう。バブル景気が到来した80年代中盤、企業は潤沢な資金を投じていくつもの物流施設を持つようになりました。土地・建物の自社保有はもちろん、借地の場合には地主に資金を貸し付け、注文建築で独自仕様の建物を開発していきました。
しかし、バブルが崩壊して企業に資金の余裕がなくなってきたとき、新たなプレイヤーとして登場したのがリース会社でした。前段で述べたとおり、当時は、物流の合理化が各企業の必須課題で、物流量も拡大し、物流施設の大型化が求められていた時代。しかし、景気は減退期を迎えており、企業にも個人地主にも、このニーズに対応できるだけの資金的な余力がありませんでした。もう少し具体的にいうと、これまでの500坪前後の倉庫なら、坪単価40万円くらいで建設可能なため、総額2億円の投資となります。この規模であれば、個人地主でも借り入れて建設することができたのです。
しかし大型化したニーズ、例えば既存物流拠点である500坪10ヵ所を統合して5,000坪の施設を建設するとなると20億円が必要になり、個人地主では資金的に対応できない。また企業にしても、仮に土地を持っていても、この先どうなるかわからない物流センターに20億円もの投資をして、回収できる見込みも計画も打ち出せないでいたのです。それ以前に、自己資金もなく、銀行借入もできないのが実情だったでしょう。
リース会社は、こうした中、土地を借地権で借りて上物を建て物流業者に貸すというスキームを構築しました。これはファミリーレストラン等の郊外型店舗の出店展開などで流行った形態で、物流施設はその応用といえます。つまり、大きさがある一定規模を超え個人の信用で資金調達ができなくなったとき、リース会社が金融機能を果たしていたということ。こうしてこのスキームは、90年代前半からの大型施設ではよくみられる形態になっていきました。
しかし、この後は、90年代後半に登場した新たなスキームにより、土地を取得して施設を開発し賃貸する不動産ファンドが中心となります。リース会社のスキームは不動産の所有ではなく、借地に建築した上物の賃貸収入によって成り立つわけですから、20年のリース期間内に投資を回収しなければなりません。つまり、ざっくり説明すると建設費が20億円でそれを20年契約のリースにすると、毎年1億円以上の収入が必要です。
その点、土地・建物を所有するファンドの場合、定期借家で貸す期間が仮に20年でも、それ以降も貸し続けることができる。つまり毎月の収益を割り戻していくことができるので年間の賃料を1億円より安くすることができるわけです。また、リースは1テナント企業に賃貸する施設を作りますが、不動産ファンドはマルチ(複数テナント)の賃貸が可能な施設も提供できます。多様化するニーズに対応可能な不動産ファンドは成長し、以降、今日までの10年間、不動産ファンドによる施設提供が増大しているのです。
こうしてみると、国や自治体、民間、リース会社、ファンドと変遷がありましたが、物流施設の提供者は、突き詰めればその時期に誰が資金を持っていて、そして、いかに低コストで利用者に施設を提供できるのかを如実に表しているといえます。
年毎に拡大する物流不動産投資家の購入ニーズエリア
※CBREに寄せられた物件購入依頼と実際の取得事例を元に、オフィスジャパン編集部でニーズイメージを図示した。