シービーアールイー
藤本 隆博
今回は、アジアの不動産マーケットの中で、タイとベトナムを取り上げる。日本企業の進出が相次ぐ両国だが、とりわけタイへは、2011年の洪水後もその勢いは衰えていない。本稿では、それぞれのインダストリアルセクターについて俯瞰してみたい。なお、「インダストリアル」とは工場系不動産を指す。
1 日本企業の動きと東南アジア
日本企業は従来から低廉な労働コストを求めて、海外に生産拠点を移す戦略を取ってきた。近年は、国内市場の沈滞や円高の進行などによって、企業は海外へのシフトをさらに進めることとなった。
当初は「世界の工場」と言われた中国を中心に生産拠点を展開してきた企業が多く見られたが、「チャイナプラスワン」戦略を検討する企業が増え、さらに昨今の日中両国間の摩擦の高まりや、より労働コストの低廉な地域を目指した生産拠点の再配置先や新たな進出対象として、東南アジアの諸都市がクローズアップされてきた。中でも1960年代から日本企業の進出が続くタイや、さらにタイよりもコストが安いベトナムなどが進出先として注目を集めた。
余談であるが、3.11の東日本大震災の直後、日本の製造業がタイに「脱出」を図っているとの報道を受け、当時香港駐在であった私はバンコクで関係者にその状況についてヒアリングを行う機会を得た。答えは「企業進出ラッシュは震災に因るものではなく、ずっと以前から続いていることである。震災後、各社は震災対応に追われており、以前より問い合わせが少なくなっているぐらいだ」。
報道を鵜呑みにする愚かさを再認識すると共に、生産拠点の海外移管が一過性のものでないことを実感したものである。
東南アジア各国では、雇用の創出や工業化を図るための有望なツールとして企業誘致に積極的である。道路網などインフラを整備し、工業団地を造成して受け皿を作る。また進出を検討する企業には税の優遇措置などインセンティブを提供し、誘致を進めている日本国内でも進出を働きかける「投資セミナー」を開催して、生産拠点の移管に興味のある企業に情報を提供している。
例えばタイではタイ投資委員会(Thailand Board of Investment:BOI)が窓口になり、進出企業に情報提供や恩典(インセンティブ)の認可を行っている。BOIは、日本では東京に加えて大阪にもオフィスを構えていることからも、日本での積極的な活動ぶりがうかがえる。ちなみBOIはアジアでは日本の他にソウル、台北、北京、上海、広州に拠点がある。
「工場」だけではなく「市場」としても、東南アジアは有望な地域である。多くの人口と高まる購買力をターゲットに自動車産業などが進出しているのは周知の通りである。
加えて「メコン経済圏」。これはタイ、ベトナム、ミャンマー、カンボジア、ラオスに加えて中国(雲南省など)で構成されるメコン川流域諸国による経済圏で、3億人超の人口を擁する。それぞれが経済成長しているのに加え、都市間を道路や橋などのインフラ(いわゆる「メコン回廊の整備」など)で結び、より域内のつながりを深める試みを続けている。将来の市場としての魅力も高まっている。
こうした市場の広がりも視野に入れて日本企業は生産拠点の展開を行っているのである。
一方で不安要素もある。タイ、ベトナムを挙げてみれば、インフレや人件費の高騰を懸念する声もあれば、道路網や港湾整備がまだ途上であることや、洪水対策を含めた治水は万全かといったインフラの問題、政情不安も懸念点であり、タイで2010年に起きた反政府デモは記憶に新しい。また、中間管理職クラスの人材難を課題に挙げる声も現地で聞いた。
2 タイのインダストリアルマーケット
本稿では、タイとベトナムのインダストリアルマーケットの状況を整理してみる。正直申し上げて市況を示すデータが乏しいのだが、概観という ことでご容赦いただきたい。
まず、タイについては洪水のその後について触れる必要がある。 2011年、タイは、東日本大震災と10月に発生した自国の洪水の影響を受けている。震災では日本からの部材供給が滞り、洪水では多くの日本メーカーが冠水などの被害を受けたのは周知の通りである。
洪水対策ではその後、チャプラヤオー川の治水工事を進めると共に、 各工業団地でも敷地周辺に防波堤を巡らせるなどの対策を進めている。 加えて安全性をアピールするためのセミナーを日本国内でも行い、日本 企業の引き留めと新たな誘致を行っている。
こうした活動が奏功してか、日本企業のみならず各国企業のタイへの進出は、2012年は2011年を上回っており、洪水対策が企業から一定の評価を得たと見ることができる。
タイの生産拠点の特徴は、自動車関連やコンピュータ関連等の集積が 見られる点で、こうした産業がインダストリアル物件への需要の多くを占めている。特に自動車の生産量は増加しており、2012年第3四半期(7~9月)時点で前年対比132%の生産台数に達しており、世界の自動車 生産国のトップ10入りしたのではないかとの現地新聞の報道もあった。 輸出に加えて、国内でも自動車の普及率は急速に高まっている。
日本貿易振興機構(ジェトロ)の調査によると、タイの工業団地は少なくとも57件ある(注1)。また、シービーアールイーが把握しているタイの SLIPs(Serviced Industrial Land Plots:インダストリアルエステート、インダストリアルパーク、インダストリアルゾーンの中で生産拠点の用途に供される用地の合計)は、およそ10万ライ強(約4,840万坪)。2011年には年間で5,757ライ(およそ280万坪)の新たな稼働が見られたが、2012年は第3四半期までで5,084ライ(およそ246万坪)がさらに稼働している。この急伸は、自動車産業の好調ぶりからもうかがえる。
引き続き日本からのタイへの投資も増加を見せている。日本企業の進出数(BOIによる認可件数)は2011年が494件であるのに対して、 2012年は774件とおよそ1.6倍に増加している〔表1〕。この傾向は日系企業のみならず、他の国からの進出状況も同様であり、認可申請も近年増える傾向にある〔表2〕。
このような状況から、タイは一昨年の洪水被害を乗り越え、再び生産拠点としての位置付けを得て、企業の集積が進む状況にあると言えるだろう。
表1:主要国・地域別投資認可件数
都市名 | 2010年 | 2011年 | 2012年 |
---|---|---|---|
日本 | 368件 | 494件 | 774件 |
ヨーロッパ | 186件 | 152件 | 209件 |
台湾 | 42件 | 47件 | 64件 |
アメリカ | 55件 | 48件 | 70件 |
香港 | 31件 | 19件 | 43件 |
シンガポール | 79件 | 73件 | 133件 |
出典:BOI(Thailand Board of Investment)
表2:海外からの投資恩典申請数
2005年 | 2006年 | 2007年 | 2008年 | 2009年 | 2010年 | 2011年 | 2012年 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
日本 | 387件 | 335件 | 330件 | 324件 | 266件 | 364件 | 560件 | 872件 |
海外全体 | 1,358件 | 1,357件 | 1,317件 | 1,262件 | 1,573件 | 1,591件 | 2,112件 | 2,582件 |
出典:BOI(Thailand Board of Investment)
(注1)「タイ工業団地調査報告書」日本貿易振興機構(ジェトロ)バンコクセンター 2011年3月
3 ベトナム・ホーチミンシティのインダストリアルマーケット
ベトナムは引き続き社会主義体制を維持しつつも、2020年に「工業国家」となるべく様々な整備を行っている。インフレ抑制と工業化の進展を両立するかじ取りを迫られていることもあり、一時の急成長からは 鈍化が見られる。しかし、日本企業にとっては、タイやインドネシアよりも人件費が低廉であることに加え、一定の質を維持した労働者の確保が可能であったことから、2003年の日越投資協定以来、進出が顕著になっている。
また、ベトナムは南北に長い地形であるが、北部は中国と隣接している立地を「チャイナプラスワン」戦略では評価する向きもある。
こちらもジェトロの調査によると、ホーチミンシティ近郊には少なくとも工業団地が69ヶ所(注2)、ハノイを含む北・中部では少なくとも110ヶ所(注3)が把握されている。また、シービーアールイーの調査によると、 ホーチミン市周辺、同市とビンズオン省、ドンナイ省、ロンアン省の4つの地域でおよそ1万2,000ヘクタール(約3,700万坪)の工業団地が稼働 している。この地域は入居率74%(2012年第3四半期)とホーチミン市 内では最も高く、ロンアン省の30%がこの4地域の中では最も低い。
これらの用地に対する日本企業の引き合いは増加している、というのが現地の声である。実際、2012年の日本企業のベトナムへの新規投資件数は、上半期(1~6月)で126件と、過去最多であった2011年の208件を上回るペースで推移しており、ベトナムもタイ同様に日本企業の進出が増加している状況が明らかである。日本企業以外ではヨーロッパやインドネシア企業の進出が見受けられる。
(注2)「ベトナム・ホーチミン市近郊工業団地データ集」日本貿易振興機構(ジェトロ)ホーチミン事務所 2010年6月 (注3)「ベトナム北部・中部工業団地データ集」日本貿易振興機構(ジェトロ)ハノイ事務所 2012年6月
4 まとめ
タイのインダストリアルマーケットでは一昨年の洪水の影響も見られず、引き続き日本企業の進出ラッシュは続いている。また、ベトナムでは労働コストは上昇傾向にあるが、東南アジア内での生産拠点の分散など新たな拠点戦略のもとに企業の進出が相次いでいる状況が垣間見られる。
いずれも単に「工場」としての位置付けから、各国、あるいはメコン経済圏などの地域における「市場」としての魅力の高まりが、さらに進出を促す好循環を生み出している状況にある。また、今回は取り上げなかったが、インドネシアやマレーシアへの企業進出も活発になっているのはご存じの通りである。さらに民政移管が行われているミャンマーも注目が集まる国である。
企業の進出は単にインダストリアルマーケットでの需要増加にとどまらず、駐在員の生活を支える住宅、商業施設などの不動産市場に影響を与える。例えばある地域では、工業団地の整備が進んだものの、日本人駐在員の家族が生活できる設備を整えたサービスアパートメントの供給が追い付かず、企業誘致の課題になっているとの話も聞く。実はインダストリアル不動産はすそ野の広いセクターであると、今更ながら実感しているところである。
日本では生産拠点の海外移転が国内の「空洞化」につながるとの懸念が広がっている。しかし、成長のためには日本国内の成熟した市場のみならず、アジアの成長するマーケットを求めての海外展開は避けて通れない道であろう。
その進出が、進出先でのインフラの整備や雇用の創出にもつながることになれば、相互のメリットは大きい。日本企業の成功とアジアの成長がリンクすることを祈りたい。
アジアマーケットの「玄関」をノックして少しだけ家の中を覘いてみよう、というスタンスでこの連載を書き連ねてきた。興味を持っていただき、そして玄関だけではなくアジアという家の中にちょっと入ってみたいと思われた方がいらっしゃれば幸いである。「百聞は一見に如かず」、ぜひ現地を訪れ、そしてその都市の雰囲気を味わっていただけたらと思う。